オリジナリティ溢れる 中山シェフ風 フランス料理の世界

★本日の料理人 中山 豊光さん

1971年熊本県生まれ。1991年に大阪の辻調理師技術専門学校卒業、神戸のフランス料理店「ジャン・ムーラン」に勤めた後、1994年に渡仏を果たす。パリにて、日本料理店と7年間に渡るデザイナー高田賢三の専属料理人を経て、2009年に念願の「Restaurant TOYO」をオープン。


2009年12月、パリにまた一つ、食通の人々から大きく注目を浴びるレストランがオープンしました。料理を本格的に始めたころから「いつか必ず自分の店を持つ」という夢を持ち、ひたむきに前へ進み続けた中山豊光シェフ。

今日は中山シェフにお時間をいただき、今までの道のりをお伺いしました。


初めてカウンター越しに中山シェフを見たとき、料理と真摯に向き合う姿からその想いが

伝わってきて、ただただ、感動。出てきた料理を味わい、さらに感動。

それは、今までに食べたことのない、とことんやさしい味わいのフレンチ でした。


「好き嫌い」がスタートのきっかけ

火入れ加減ひとつで、素材の味が生きるか否かが変わる

落ち着いた雰囲気のカウンター


小学校低学年のころには、すでに家のキッチンに立ち、包丁をにぎっていたという中山さん。「実は、好き嫌いが多かったのが料理を始めた理由なんです。嫌いなものは食べたくないという一心で、とにかく自分の好きなものを……たとえば、カレーやドーナツを、飽きるまで毎日作っていました」。

カレーやドーナツ!これらのメニュー名と、まだまだ幼い中山少年が必死に料理する姿が妙にマッチして頭に浮かび、思わず頬がほころびます。こうして、ひょんなきっかけが中山さんと料理を結び、それはいつしか中山さんの中で欠かせない存在へとなっていくのでした。

地元の高校では食品化学を学び、食品について、数字的・化学的な側面から知識を深めます。そして、高校卒業後、大阪の辻調理師技術専門学校へと進学。在学中には、住み込みでフランス料理店の名門、神戸の「ジャン・ムーラン」での仕事も始めます。

「当時そこで働いていたメンバーは、僕以外全員、フランスに行ったことがあったんです。もともとフランスを見てみたいという漠然とした考えはありましたが、彼らの話を聞いているうちに、はっきりと渡仏を意識するようになりました」。

渡仏のチャンス到来、そして渡仏


取材中にふっとこぼれた笑顔が印象的

ある日、神戸のお菓子の講習会に参加したときのこと。そこで、MOF(フランス国家最優秀職人賞)を受賞したフランス人シェフと話す機会に恵まれ、「カタコトのフランス語で、フランスに行きたい気持ちを伝えてみたんです」。

すると、しばらくしてそのシェフを通じて、フランスの地方での仕事の話が舞い込んできたのだそう!シェフは、カタコトのほんの一文の中に、中山さんのまっすぐな想いを感じたに違いありません。1994年10月、こうして中山さんは、ロワール地方のソローニュへと飛び立ちました。そこは、とにかく何もない「ど田舎」。オーベルジュ(食事付きの宿泊施設)での住み込みの仕事でした。村の人々は不親切なわけではないけれど、ことばが十分に出来ない外国人とあえて会話をしようとすることもなく、中山さんが誰かと話をすることはほとんどなかったといいます。

「フランス語のできない僕と話すのは面倒くさいという感じですね(笑)。でも、特にそれについては何とも思いませんでした。やりたいことをしに、好きで行っていたから」。

日本との生活とは違い、そこにはゆっくりした時間の流れがあり、中山さんはそのときしか出来ない過ごし方を楽しんでいました。


予期せぬ一時帰国と、再スタート

シェフの手さばきを眺めることができるカウンター席

ところが、渡仏してまもなく、1995年1月に阪神・淡路大震災が発生。中山さんは、被災したかつての勤務先「ジャン・ムーラン」を手伝うため、一時帰国を決意します。その後、半年間に渡って土方などの復興作業に携わったのちに再びの渡仏を果たし、オーベルジュでの仕事を再開しました。

当時、『自然から料理を創作する料理人』といわれる、憧れのミッシェル・ブラ(ス)のレストランで働くことを目指していた中山さん。ところが、渡仏後、時が経つにつれ、フランス人にスペシャリテを聞かれても返す言葉がなく、また、日本人でありながら、日本食の基本を知らない自分に疑問を感じ始めました。

ちょうどそのころ、お世話になったフランス料理出身の人も勤めるパリの高級日本料理店「伊勢」で働くことを決意したのでした。

フランス料理を離れることに抵抗はなかったのか、と尋ねると、「もちろんありました。日本にいる先輩にも『せっかくフランスに行ったのに』と反対されました。でも、世間には僕と同じような調理師はすでにいっぱいいましたし、そんな中、いきなり星付きレストランに行っても、埋もれてしまって意味がないのではないか、と。当初の考え方とは変わりました。オリジナリティをもち、頭数(あたまかず)に入れるような仕事を出来るようになりたいと思ったんです。この先、ずっと料理でやっていくのだから、長い目で見てみようと……それで、一旦、日本料理を学ぶことにしました」と中山さん。

急がば回れ。中山さんは、ブレることのない信念を持って再スタートを切ったのでした。


学びと出会い


「そのときは、(魚など、食材の)下処理も知らなかったし、かつら剥きも出来なかった。日本料理に関しては、何もできない自分がいました」と振り返ります。中山さんは、それから6年に渡る修行を重ね、日本料理を基礎からみっちり学ぶことになります。その間に、労働許可証も取得。

いいお客様たちとの出会いもありました。得るべきものを得た中山さんは、フランス料理へ戻るスタートアップとして、休日にはフレンチレストランで研修をしたり、食べ歩きの日々。そんな折、あるフードジャーナリストから、「高田賢三氏の専属料理人をやってみないか」とのお声かけ。日本料理店の常連でもある高田賢三氏のことは知っていたものの、現場で働きたかった中山さんは、一旦は断ったといいます。

デザイナー高田賢三氏の専属料理人に

しかし、それから約半年後、中山さんは大きな決断を下すことになります。それは、一旦は断った高田賢三氏の専属料理人になることでした。

「ちょうどそのころは日本料理店も辞めていたし、30歳で歳も歳だったので、そろそろ動かないといけないと思いました。すでに子供もいたし、神戸でのシェフの話も来ていたこともあって、日本に戻るか、賢三さんの専属料理人になるかの二つに一つでした。相当悩んだのですが、たまにお手伝いに行っていた賢三さんのお宅での経験を思い、そこでなら、『料理ではない部分』を勉強できるかもしれない、と思ったんです」。

2千平米にもおよぶ高田氏の豪邸での、住み込み専属料理人。ふだんの食事だけでなく、自宅での接待や会議の際の大人数の食事も任されました。料理だけでなく、花の位置を含めたテーブルセッティングなど、すべて中山さんがオーガナイズ。そこには常に世界中の華やかな人々が集まり、時には200人の招待客への料理を提供することもありました。


真剣なまなざしで盛りつける中山さん

「さすがに一人で大勢の食事を用意するのは不可能なときもあるので、ときには、スタッフをそろえて指揮を執ることもありました」。

メニュー決定、時間配分、進行管理……、初めて仕事を共にするスタッフのそれぞれの得意分野を把握し、皆をまとめることは非常に大変な役割。中山さんは、どんな状況でも、弱音を吐くことなく、誠実に確実に、すべてをこなしました。

「賢三さんは、僕の料理を毎日食べています。その賢三さんが飽きないように、また、主賓が日本から来たばかりなのか、帰る直前なのかなど、細かな情報も含め、毎回のメニューを考えました」。『訪れる人を、喜ばせるようにもっていく』、中山さんの最高のおもてなし術はここで培われたのです。高田氏には常に付き添い、クルージングの船上でも料理をふるまいました。フランスの各地への移動ではそれぞれの地方料理を作り、さまざまな経験も積みました。

「賢三さんは、厳しい。30年付き合いがある相手にでもそうです。でも、それは筋の通った厳しさで、本当はとても心の優しい方なんです。賢三さんのおかげで、僕は多くのことを勉強することができました」。


独立への道


こうして高田氏がバスティーユの邸宅を手放すまで、7年間に渡り専属料理人を勤めた中山さん。

「賢三さんが邸宅を手放す、イコール、僕が必要ではなくなるということ。このタイミングで、かねてからの夢だった独立をすることにしたんです」。

ところが、話はスムーズには進みませんでした。出資者も物件も決定したかと思いきや、リーマンショックの煽りで出資の話が暗礁に乗り上げ、すべてが白紙に。

「これはショックでしたね。レストランオープンまでの8割のことが決まっていたのに、まさか……と」。

そんな中山さんに手を差し伸べてくれたのが、高田氏でした。銀行に相談に行ったり、工事費の負担を引き受けたりと、中山さんをサポート。こうして、2009年12月、念願のRestaurant TOYOオープンへと漕ぎつけたのでした。


お料理拝見

素材を生かして、シンプルに。「なるべく簡単に」仕上げるといいます。素材のよさはお墨つき、鮮度にももちろんこだわります。

中山さんの料理は、フレンチと和のフュージョンと表現されることも多く、

「極力、味をつけないところが日本的と言われる所以でしょうか」。

和のエッセンスを上手に取り入れ、味付けは最小限に抑える。これが中山シェフのフランス料理、豊富な経験と努力から生まれた新しい世界なのです。ではここで、お料理の一部をご紹介いたしましょう。


セルフィーユのねっこの揚げ物、

たこのグリエ添え

アミューズブッシュ。素材の味が口中にふんわりと広がります。



豆乳のフランとキャビア

軽い口あたりの豆乳のフランに、たっぷりのキャビアをのせた贅沢な一品。


剣先イカとセップ茸、ピエブルー茸、大根もちの温製サラダ

海と山の恵みを、仲良くおいしいサラダに仕上げました。マルシェから入ってくる食材によってもメニューは変わります。秋にはやはり、きのこ類もふんだんに取り入れて。


フォアグラのポワレ、ブイヨン仕立て

フォアグラと、やさしい味わいのブイヨンが素敵なマリアージュ。

ブイヨンのおかげでフォアグラの重さを感じず、さっぱりといただけます。


金柑茶

食後にいただく、ほんのりと甘いお茶は、心身ともに温めてくれ、体にすーっと染みわたります。


今後のこと

「自分でお店をやるということが、これほど大変だとは思ってもみませんでした。正直、やらなきゃ良かった、と思うこともあります(笑)。でも、お客様の喜ぶ顔を見たとき、その気持ちがすっと消える。やる気の原動力ですね」と中山さん。「今後は、お客様にさらにいいものを出したいですし、もっと環境のいいレストランもつくり上げていきたい。スタッフにも育って欲しいです」。現状に満足せず、さらにステップアップを目指す姿は頼もしい。つい気になって、星の獲得を意識しているかどうか聞いてみたところ、「特に意識はしていませんが、もし星がついたら素晴らしい人材も集まってくるだろうから、そういう意味では、いいでしょうね」とにっこり。


中山シェフからのメッセージ

日本とは違い、業者はいい加減、物はすぐ壊れる、トラブルの数は日本の何倍にものぼり、

「倒れそうなくらいにアクシデントの連続で、ここまで来るのに、折れそうになったことも何度もあります」。

けれども、中山さんはすべて乗り越えてここまで来ました。

「今、僕が言えるのは、『あきらめなければ必ず出来る』ということ。今、夢に向かって頑張っている人たちにも、あきらめずに最後までやり抜いて欲しい」。

そして、最後にはこう続けました。

「(良い)手抜きはいいけれど、妥協はいけない(塩こしょうやレモンの味付けだけでも食べられるけれど、素材が良くないものを出すのはダメ)、僕はそう思っています」。

これらの言葉に、中山さんの生き方そのものが凝縮されている気がしました。

レストランの入り口には、高田賢三氏自らが筆をとった中山さんの肖像画。高田氏がどれほど中山さんを大切にしていたかが伝わってきます。高田氏は、今でもしばしば、中山さんに会いに、ランチに訪れるそう。

「相変わらず厳しいですよ(笑)。僕が忙しくしていることもあって言葉を交わすことはほとんどないのですが、『今日のはあまり好みじゃなかった』と、ぼそっと言って帰られることもあります」。

また、レギュラーメニューの「TOYO風カレー」は、実は、高田氏が好きだったブイヤベースを作った翌日に、その出汁を使ってカレーを作ったことから生まれたスペシャルメニューとのこと。これらのお話を伺ったとき、お二人の距離感が非常に心地よく、気持ちが温かくなるのを感じました。

これからもずっと、心地よい中山シェフ風フレンチの世界を創り続けてくれることでしょう。訪れるお客様の喜ぶ笑顔に囲まれながら。


★Restaurant TOYO

(レストラン・トヨ)

Tel : 01 43 54 28 03

営業時間 : 12 :30~14 :00、

19 :30~22 :00

定休日 : 日、月の昼

※ランチ35ユーロ~、ディナー79ユーロ~。月曜の夜は、和食コースのみ。

最寄メトロ: 4番線Vavin


取材・文:内田ちはる

写真:新村真理